勉強会開始は8時30分。アドバイザーという名のお目付け役は副部長の伊東だ。
「では、お手元に資料はありますでしょうか。今回は出張中の移動時間と残業について確認しておきます」田嶋は出席者を見廻し、問題がないことを確認した。
「出張は皆さんも普通に行きますよね。当行全体では所属している組織によりますが、業務で出張をしなければならないことがあります。日帰り出張もあるでしょうし、前日に宿泊して朝から顧客訪問や会議を行うということもあるでしょう。出張は移動時間が長いものです。時折の出張であれば気分転換になるかもしれませんが、毎週出張があるならば出張の負担は重いものです。そして、就業時間中は顧客訪問・打ち合わせ等の業務を行い、就業時間終了後に帰宅のための移動を開始することが多いのではないでしょうか。帰宅した時には深夜となっていることもあります。このような時に『出張の移動時間は残業時間にすべきではないか』と疑問に持つ方も多いのではないでしょうか。今回は出張の移動時間について残業にならないのかという素朴な疑問について確認します。現場の若手から質問されることが多い項目です」ここまで一気に田嶋が話をしたが、出席者は田嶋の方を真剣に向いて頷いている。彼らにとっても分かりやすい話題であり、自分自身の問題としても実感されるのだろう。
「まず、出張における移動時間に残業代が発生するかを考える前に、残業代が発生する『労働時間』について確認しましょう。残業代は、会社に対する労働・役務の提供によって発生するものであり、所定労働時間もしくは法定労働時間を超えた労働している時間が残業時間であるからです」ここで資料をめくる。田嶋の動きを見て参加者もページをめくった。
「では、労働時間とはどのように判定されるのでしょうか。実は労働基準法等の法律には、労働時間を明確に定義する条文がありません。労働時間は裁判例(判例)によって定義されてきたというのが正しい理解です。3ページに記載されているのは、労働時間に関する最も有名な判例です」
労働基準法上の労働時間とは、従業員が会社の指揮命令下に置かれている時間をいう。労働基準法上の労働時間に該当するか否かは、従業員の行為が会社の指揮命令下に置かれたものと評価できるか否かによって客観的に決定されるものであって、労働契約、就業規則、労働協約等の定めによって決定されるものではない。(三菱重工業長崎造船所事件、最一小判平成12年3月9日抜粋)
「労働時間についてイメージしやすいのは、オフィスで上司が『監視・指揮』している中で業務を行う場合でしょう。従業員はいつでも上司の命令を聞かなければなりません。一方で、上記判例は『従業員が会社の指揮命令下に置かれている』としているだけで、上司が直接監視・指揮している中で業務を行うことを労働時間該当の条件としている訳ではありません。『会社・使用者の指揮命令下』に置かれていれば、実作業に従事していなかったとしても『労働時間』に該当するケースがあるというのが判例によって蓄積された考え方です」