事実はケイザイ小説よりも奇なり

経済を、ビジネスを、小説を通じて学んでみる

帝國銀行、人事部71

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 しばらく電話の向こうから音が聞こえなかった。沈黙だけが続いた。そのうち、猫の声のような音が少しずつ携帯電話から聞こえていることに気付いた。裕子が泣いていた。だんだんと鳴き声は大きくなり、数分続いた。田嶋は裕子が何を考えているか分からなかった。しかし、待つしかないことは分かっていた。永遠に続くような時間が過ぎ、裕子の声が人間の声となった。

「ありがとう。電話でのプロポーズになるなんて想像もしていなかったし、本当は直接会った時に聞きたかったけど、嬉しい」裕子は、か細い声で言った。

「結婚しましょう。しばらくは単身赴任頑張って。でも私は結婚しても一人暮らしは嫌。だから、会社に掛け合って、私も大阪に転勤させてもらうわ。それまで浮気をしちゃ許さないよ。大丈夫。私は営業成績も良いし、うちの会社の役員とも飲み友達だから、お願いすればきっと聞いてくれるわ」裕子は、最後には涙ながらに笑っていた。

 その後、田嶋が転勤してから3ヵ月後に東京の区役所で婚姻届を提出した。裕子は会社に働きかけ、特例で関西の支店への転勤を認められ、半年後に二人は初めて一緒に住むことができた。

 しかし、裕子の転勤は本人の出世のためにはあまり良く無かったようだ。初めての関西で、もちろん関西弁もしゃべることは出来ない。建築案件をくれる知り合いの地主が一人もいない。最初のうちは営業成績が上がらず、出世が遅れた。

 それでも裕子は明るく田嶋との生活を大事にしてくれた。平日は田嶋の方が帰るのが遅いため、夕食を準備して待っているのはいつも裕子だった。自分も疲れているだろうに、田嶋の健康を考えて夕食は手作りが多かった。

 そして、きっかり3年後に田嶋は転勤で東京に戻ることになった。この時も裕子は会社に掛け合い、2ヵ月後には東京に転勤を勝ち取った。

 田嶋に全てを合わせてくれている裕子に対して、田嶋は常に感謝している。

 二人の間には子供は出来なかった。不妊治療に通うことも考えたが、同期の夫婦が不妊治療で苦労したことを聞き、田嶋達はその選択をしなかった。二人でも十分に幸せで楽しかったし、裕子も仕事を楽しんでいたからこれ以上、裕子に負担をかけたくなかった。

 これが田嶋と妻の裕子の現在だ。守るべき人がいるということは何よりも幸せなことだ。