事実はケイザイ小説よりも奇なり

経済を、ビジネスを、小説を通じて学んでみる

帝國銀行、人事部70

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 結婚したのは31歳の時だ。お互いに結婚を意識してはいたが、具体的な話はしていなかった。

 しかし、田嶋は銀行員で、銀行員には転勤が付きものだ。付き合ってから1年も経たないある日、突然、支店長から呼ばれ、大阪の支店への異動を言い渡された。1週間後には着任していなければならない。

 支店長室から出て、自席に戻った瞬間に田嶋は裕子にメールをした。銀行では異動の発令を受けた日は最初の送別会がある。その後、顧客引き継ぎや内部の引き継ぎがあり、新場所での引き継ぎもある。そして毎日のように飲み会が続くのだ。田嶋は裕子に会って直接伝えたかったが、まずはメールで伝えざるを得なかった。

 大阪への転勤を伝えたメールに対しての裕子の返信メールは「私はどうすれば良いの?」だった。

 裕子が総合職としてバリバリと働いていたのを知っていた田嶋は悩んだ。本音では会社を辞めて自分に付いて来て欲しかった。田嶋は裕子と結婚したいという自分の気持ちをはっきりと認識したのだ。当時は、まだまだ古い時代だった。夫が転勤になったからといって、女性が仕事を続けたまま夫の勤務地に転勤させてくれるような会社はほとんど無かっただろう。もちろん、満水ハウスも同様だ。しかし、裕子を関西に連れて行く、すなわち会社を辞めさせることは裕子の人生を否定しているようだった。

 田嶋は悩んだ挙げ句、送別会が終わった深夜に裕子に電話した。裕子はワンコールで電話に出た。

「結婚して欲しいと思っている」田嶋は率直に切り出した。

「でも、裕子ちゃんに会社を辞めて欲しいというようなワガママは言えない。だから、申し訳ないが結婚してからの数年間は単身赴任とさせてくれないかな」田嶋は声を絞り出した。