事実はケイザイ小説よりも奇なり

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帝國銀行、人事部64

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 田嶋は副部長の伊東から個室の会議室に呼ばれていた。

 時刻は20時30分。そろそろ帰りたい時間だったが、急に呼ばれたのだった。今日は自宅でご飯を食べると伝えたので、妻が何かしらの準備をしてくれているはずだ。もし、食べられなくなってしまったら申し訳ない。

 田嶋の思いなど知らず、会議室に入るや否や、伊東が話し始める。

「中野坂上の岩井君のことは大変だったな」

「はい。怪文書の件も含めて、皆様にご迷惑とご心配をお掛けしました。伊東さんにも諸々ご指導頂きました。何も無いとはいえ、火のない所に煙は立たないと言われかねません。今以上に身を引き締め、業務に邁進します」

「君は相変わらず固いね」笑いながら伊東が言う。しかし、目だけは笑っていない。伊東の顔には笑い皺が刻まれている。少し表情を動かすだけで笑っているような表情が作られる。話し方も穏やかで、一見すると理解のある素晴らしい上司と見えるだろう。

「私達、旧Yの人間は、隙を見せてはいけないからな。しかし、同じ出身行の先輩へは、うまくやらないとね。自分の味方になってくれる人達だから。ま、岩井君のことはどうしようもなかったけどね」そう言い、伊東は田嶋を睨むような視線を一瞬送ってきた。

 恐らく、岩井のことではかなり思うところがあるに違いない。岩井を評価していた一人が伊東だ。合併前の経営企画部で二人は一緒だった。

 伊東は旧Y、すなわち旧横浜みなと銀行の経営企画部に所属していた。もう十年以上前のことだ。その時、旧帝國銀行との合併が発表され、伊東は合併の実務を担った。発表前の数カ月は秘密を守るために、少数のメンバーとほとんどホテル暮らしで合併協議に臨み、不眠不休だったという。そして、合併が発表されてからの一年間は、経営企画部の統合準備室における中心メンバーとして行内に名が知られるようになった。それまでは、伊東は『頭は良いが営業の出来ないやつ』という行内の評価だったが、修羅場に強い頼れる人に行内の評価が変わったのだ。

 田嶋が知る限り、そこで伊東は評価され、今のポジションを掴むまでになった。人事部の副部長というポストは実質的には旧Yの一般行員の人事を司ることになる。合併したものの、人事部は二つあるようなものなのだ。帝國銀行で主導権を持つ旧帝國銀行出身者が部長となり、旧Y出身者が副部長を勤めるのが不文律だったが、お互いの人事に口出しをすることはなかった。銀行における人事部の権限は一般企業から見ると信じられないほど強い。どの支店長、次長、課長だろうと部下の人事権はあまり無いに等しい。人事部に意見は言えるが、あくまで決めるのは人事部だ。部下は上司を選べないとは良く言うが、上司も部下を選べないのだ。