事実はケイザイ小説よりも奇なり

経済を、ビジネスを、小説を通じて学んでみる

帝國銀行、人事部67

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 伊東は相変わらず田嶋をモノのように見ている。伊東の目は眼鏡の奥でビー玉のように光る。何の焦点も結ばず、感情も伺えなかった。まるで人形のようだ。

「当行に旧Yを食わせていく余裕は無い。これは業務命令です。旧Yの神奈川県内の店舗と事務担当の人員をリストラして下さい。嫌ならばすぐに辞表を出して当行を辞めて下さい。それとも、行ったことも無いような場所に異動させましょうか。山崎豊子先生の沈まぬ太陽の主人公のような経験をしますか」一言ひとことが鋭利な刃物で切られているような感覚だった。伊東から発せられるのは悪意しかない。伊東はモノでしかない田嶋に命令している。田嶋を人だなんて思っていないことが明確に感じられる。

「仲間を切るなんて私には想像もできません。銀行は人が全てのはずです」田嶋は精一杯の声を出した。それでも、自分の声を聞きながら妻の顔が浮かぶ。行内の仲の良い同期や後輩たちの顔も。視界がにじむ。自分が涙ぐんでいることに田嶋は気付いた。

 伊東は黙っている。沈黙だけが会議室を支配していた。徐々に田嶋は恐怖のような感情に支配されていた。今まで築き上げてきたものが崩れる恐怖。叩き上げで人事部までたどり着いたことが自分のプライドの源泉であることへの気付き。自分が帝國銀行の外に出た時に活躍出来るかが分からない不安。ごちゃまぜの感情が田嶋の頭の中を渦巻く。それは少しずつ形となり、やがて結論となった。

「分かりました。当行のためにも、そしてお世話になった旧Yの皆様のためにも、私が担当させて頂きます」田嶋は鼻にかかった声で伊東に返答した。

 負けたのだ。自分は大事なものを今失った。そのように田嶋は、はっきりと自覚していた。自分は弱い人間だ。だが、長いものに巻かれることこそサラリーマンが生きていく極意だ。自分を肯定することだけを田嶋は考えようと思った。

「まず始めに何をすれば良いでしょうか」感情が無くなった声が自分の口から流れた。

「まずはリストラ対象の行員のリストアップです。それから、対象者が退職せざるを得なくなるようなシナリオ構築ですね」伊東の指示をノートに書き留める。

 今の自分も伊東のようにビー玉のような目をしているのだろうか。田嶋は思った。