事実はケイザイ小説よりも奇なり

経済を、ビジネスを、小説を通じて学んでみる

帝國銀行、人事部52

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 出勤すると伊東がすぐに会議室に来るように指示を出してきた。机からノートだけを取り出して、伊東の後を追う。いつもの殺風景な会議室に山中がいた。伊東が自然な形で山中の横に座る。田嶋は山中の目の前にテーブルを挟んで座った。今日の山中のネクタイはいつもよりも明るいオレンジに近い赤だった。

「中野坂上支店の岩井君の件なんだがね。この度、関西の事務センターに異動してもらうことになった。君が入手した不倫の証拠写真が決定打だ」

 山中は真面目な表情だったが、口調は少しラフだった。いつもの冗談が多い山中の雰囲気だ。

「完璧に、ホテルと、銀行の業務用車、そして腕を組みながらホテルに入っていく岩井君と部下が写っていたね。しかもデータは業務時間中であることも示していた。完璧にアウトだ」苦笑いしながら山中は伊東を見た。伊東は肩をすくめただけだった。

「岩井君は降格の上、関西へ単身赴任。相手の男性部下は仙台へ転勤だ。これで二人が接点を持つことも無くなるだろうし、中野坂上支店の問題も解決する」

「ありがとうございます。中野坂上支店のメンバーに顔向けが出来ます」頭を下げた田嶋の後頭部に山中のからかったような声が響く。

「田嶋のためじゃない。それに田嶋は中野坂上支店の担当から外す。そして、中野坂上支店のメンバーも半年程で一気に入れ替える。騒いだら支店長の交代も可能だというようにこの支店メンバーは認識してしまったかもしれない。これは組織的には危険だ。彼らには、仲間と離れてもらい、今回の事件を忘れてもらいたいところだ」

「そうですか」田嶋は腹の底から絞り出すように、声を出した。山中の発言は頭では理解出来る。組織を動かすということはこのようなことだ。「しかし」そう口を開きかけた時に、伊東が話を始めた。

「ついでに言えば、田嶋さん。あなたの行内不倫疑惑はおとがめ無しです。決定的な証拠はありませんでしたし、あなたの説明も相応に説得力がありましたよ。良かったですね、きちんとした証拠があって。はっきり言って、当行において岩井支店長と田嶋さんとを比べたら、どちらが大事かは一目瞭然でしたからね」

 どうやら山中は田嶋が提出した田嶋自身の潔白を補足する資料について、伊東に内容を確認させていたようだ。

 田嶋は、伊東の嫌みにも心が動かされることは無かった。単に、ほっとして素直に頭を下げただけだ。

「では、本件は一件落着だ。どうだ、今日の夜でも飲みに行くか」そう言って山中は笑った。

「お誘いありがとうございます。しかし今日は妻と食事をする約束をしております。申し訳ないのですが、別の機会にお願いします」田嶋は山中の久しぶりの誘いを断った。本来は山中と飲みに行くべきだろう。サラリーマン検定があったら、間違いなく不合格だ。しかし、今日だけは早く妻の裕子に会いたかった。性格的に誘いを断れても気にしない山中の横で、伊東が少し蔑んだような目で田嶋を見ていた。