事実はケイザイ小説よりも奇なり

経済を、ビジネスを、小説を通じて学んでみる

帝國銀行、人事部26

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「分かっていると思うが、三六協定の見直しは無理だ。現実的じゃない」田嶋は少々暗く、小さな声でつぶやいた。

「分かっているさ。この時代に若手行員を残業させまくると、それだけでブラック企業扱いだ。でも、若手の間は、一つひとつの仕事に時間がかかるもんだ。その勉強をする時間も取り上げてしまうことになるから、かわいそうだとは思うんだよ。実際に、優秀な若手ほど残業をしたがるんだよな。ま、人事に言ってもしょうがないよな」島田がそう言って笑い飛ばしたところ、他の同期が入ってきた。浅川、梶、村尾の三名だ。三名とも本部勤務で一緒にタクシーで来たという。

「おう。遅れて悪いな」浅川が快活に声をかけてきた。

 浅川は不動産ファイナンスの専門部隊に所属している。梶は、総務部、村尾はシステム企画だ。

 本部のある日比谷からだと亀戸は少し遠い。それでも、少しでも遅れないように急いできたのだろう。この三名はいつも一緒だった。

 浅川はアメフト出身者らしい浅黒い風貌とさわやかな短髪、白い歯で語り掛けてきた。

「田嶋。お前もそろそろ人事から出ないとやばいんじゃないか。銀行内部のことばかりやっている間に、世の中は思いっきり変わってきているぞ。早く現場に戻らないと浦島太郎状態になるぞ」

「分かっているよ。自分には一ミリも対顧客では付加価値がないことは理解しているさ。行内では、人事はエリートだと言われて、妬まれることもあるけど、人事から出た先輩達は皆さん苦労しているよ。内向きな組織の、内向きな論理では銀行が持たなくなってきているんだろうな」

 ここで梶も参戦してきた。

「当たり前だ。リーマンショックが起こってから、金融機関は世の中から敵視されているんだよ。そして、世界の悪者にお金を流さないように、凄まじいテンションで役割を課されている。テロ組織や米国の制裁対象国へうちの銀行が送金でもしてみろ。一発で何千億と罰金とられかねない」

 村尾も負けじと声を上げる。

「その通りだ。人事部は人材を獲得し、育成する責任がある。それでも人間はミスを犯す。そして嘘をつく。俺が最近やっているのは、可能な限り人間の手を排し、ミスのない、そして嘘のつかないシステムでテロ対策やマネーロンダリング対策を行うことさ。場合によっては大きなリストラにつながるかもしれないが、それでも覚悟を持ってやるしかない」

 そこまで村尾が言ったところで、生ビールが5杯運ばれてきた。島田が頼んでいてくれたようだ。

「山手線外の会に乾杯!」島田が声を上げる。

「乾杯!」残り四人が発し、一気にビールをあおった。

「うまい」田嶋がつぶやく。こんなにうまいビールはいつ以来だろう。人事部の臨店グループは基本的に行内の誰とも飲まない。人事情報を洩らしてはいけないし、変な頼まれごとをされてもいけない。人事は銀行員にとって最大の関心事であり、重要事項だ。人事部は自然と人事部内でしか飲まなくなるのだ。

 ここにいるメンバーは、気心の知れたメンバーだった。いわゆる『気のおけない仲間』だ。

 今日は様々な部署にいるメンバーが気を使わずに情報交換できる場なのだ。田嶋にとっては、本当に貴重な機会だった。

 といっても、1時間後には昔のバカ話ばかりになっているだろう。皆が新入行員のあの時に戻ってしまうのだ。誰が好きだったとか、あの先輩は最低だったとか、そんな昔ばなしに今日も花が咲くだろう。そして、きっと二次会はカラオケに行くのだ。田嶋はオリジナルラブを歌う。浅川は踊り付きで少年隊だ。島田は野球アニメ「タッチ」の主題歌、梶と村尾は誰も知らない洋楽を。誰もが相手を気にしながら、気にしなくても良い。そんな関係が同期だ。

『銀行は人が全てだ。このメンバーがいる当行は素晴らしい銀行だ』田嶋は、そう思いながら歌っている自分の姿を容易に想像できた。