事実はケイザイ小説よりも奇なり

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【秘書⑥】(ヂメンシノ事件55)

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 「他に誰も来なかったのかな。」

 「はい。申し訳ないのですが、今回は私だけです。」そう言って成田が頭を下げた。

 「いや、全然問題ないが若い女性とおじさんというのはちょっとね。」

 「実は、今回は誰も誘っていないんです。」そう言って成田は早口に喋り始めた。いつにない感じだ。

 「今回は平野社長と一対一で飲みたかったんです。ここ暫くは大変な目に会われていますから、少しでも気を使わない時間を持って頂きたくて。」成田は必死な表情で平野に伝えてきた。このような成田を平野は初めて見た。

 「ありがとう。ただ、若い女性がおじさんと噂を立てられたら申し訳ない。一杯だけやって帰ろうか。」

 「勝手にお誘いして申し訳ありません。一杯だけでも良いですから付き合ってください。」

 そう言って、成田はラフロイグ12年のロックを頼んだ。平野は、グレンフィディックの同じくロックにした。

 乾杯をした後に成田が話を始めた。

 「このお店は音楽好きの友達に連れてきてもらったんです。かなり古いレコードが大量にあるようですよ。」

 「成田さんは音楽が好きなのかい?」

 「はい。年の離れた兄が音楽好きで良く聞かされました。イギリスのロックとか聞きましたね。兄が一番好きだったのはオアシスですよ。私も大好きですね。」

 「私も音楽は好きだったな。年代が年代なので1960年から1970年代の音楽が好きなんだけどね。そうだ、マスター。アル・グリーンのアルバムはありますか?」

 マスターの少し高い声がカウンター側から聞こえてくる。「Let’s stay togetherならありますよ。」

 「さすが!かけて下さい。」

 平野が少し興奮気味になっているのを見て成田が大きな笑顔を作った。

「平野さんもそうやって笑うんですね。」

「そう言う成田さんも会社で仕事している時とは随分と印象が違うね。あまりしゃべらない人だと思っていたんだけどね。」

「確かに普段の私は別人かもしれません。おっちょこちょいで、話好きで、すぐに忘れ物をするので、仕事中は人格を変えているんですよ。」成田が笑いながら言った。

 平野は初めて成田という人間に接したような気がした。

 平野と成田は取りとめもない話を続けた。初めてお互いを知るために向き合ったのだ。

 気づけば双方の二杯目のグラスが空いていた。

 先ほどから、成田の左手が平野の右太ももの上に自然に置かれているのに平野は気づいていた。気づかないフリをしていたが、感覚が成田の手に集中してしまっている。

 バックでは平野の好きなアル・グリーンのヒット曲がかかっていた。少しかすれたようなファルセット、今になって聞くと遅いテンポと、古い曲だというのが良く分かる。久しぶりに聞いたアル・グリーンは確かにオールディーズだ。自分の青春が遠い彼方に存在することを改めて再確認し、平野は口を開いた。

 「そろそろ帰ろうか。」

 成田は残念そうな、抵抗したそうな顔を一瞬見せたが、すぐに秘書の顔に戻った。

 「社長、本日はありがとうございました。明日は西日本建築事業部 丸中常務と8:00からミーティングがありますので少し早めにお越しください。」

 成田をタクシーに乗せ、自身も別のタクシーに乗り自宅に向かいながら、平野は少しだけ妻に後ろめたい気持ちになっていた。久しぶりに妻とバーに行きたいと素直に思った。

(続く)


ヂメンシノ事件

<アル・グリーン(ご参考)>